特に乳がんの患者さんに多く発症するとされるリンパ浮腫。その治療で最も大切な圧迫療法に用いられるのが、弾性ストッキング・スリーブや包帯といった「弾性着衣」です。
この弾性着衣は、2008年4月、購入が保険適用となり、療養費として支給されるようになりました。
(写真提供:北村 薫先生)
この保険適用の実現に大きく貢献されたのが、乳腺外科医であり、一般社団法人 日本リンパ浮腫学会の理事長を務める北村 薫先生です。
「患者さんからは今も『弾性着衣は高い』と言われることが多いんですよ。それだけ保険収載が当たり前の世の中になったってことですよね」と言うその表情はどこかうれしそう。
「今の患者さんは昔のことを知らないので、『そうだね、高いよね〜』と相槌をうっています(笑)。こういうのって医者が諦めたらそこでおしまい。悪あがきを続けていたおかげで少しはお役に立てたのかな、と感じています」
笑顔で話す北村先生ですが、ここに辿りつくまでは、多くの困難を乗り越えてきたそうです。「目の前の患者さんをなんとかしなきゃ」という強い使命感と愛情があふれる北村先生に、なぜ「弾性着衣」を保険適用にしようと思ったのか。そして、そのためにどのような活動をされたのか。お話を伺いました。
Profile
一般社団法人 日本リンパ浮腫学会
理事長 北村 薫先生
カリフォルニア州立大学サンディエゴ校
客員教授
AM CLINIC (アムクリニック) 院長
目次
乳腺外科医としての本音
乳腺外科の専門医が、いったいなぜ「弾性着衣」の保険適用実現に取り組んだのでしょう? その理由を、北村先生は次のように語ります。
「日々、患者さんと向き合う中で、“乳腺外科医は、腕のリンパ浮腫を作る側の人間”という気持ちがいつもありました。もちろん私たちは、病気を治すために全力を尽くしているのだけれど、残念ながら治療後の後遺症であるリンパ浮腫はどうしても一定の割合で発症してしまうのです。
乳がんの治療をすることは同時に、リンパ浮腫のリスクを負わせてしまうことでもある。2002年に自分の執刀した患者さんの手が腫れたのを初めてまの当たりにして『なんとかしなきゃ!』と思いました。それからリンパ浮腫の勉強を始めた矢先、もう発症していた患者さんからこう言われたんです。
『先生、弾性着衣の保険、通してくれたらいいのに……』
リンパ浮腫の治療では、「弾性着衣」を使った圧迫療法が非常に重要ですが、とにかく高い。しかも、毎日使ううちに劣化して圧がかからなくなるので定期的に買い替えないといけない。でも高額を理由に古い着衣を何年も使ってしまう患者さんもいて、そうなると治療の効果も期待できない。
最初のうちこそ『そうだよね〜』と聞き流していましたが、あまりにも多くの患者さんが困っている様子を目の当たりにして、私にできることからやってみようと決心しました」
北村先生が調べていく中で実現可能と思ったのは、整形外科でコルセットなどの装具が保険適用されている「装着指示書」を適用する仕組みでした。患者さんが一旦10割で購入し、その後必要な手続きをすることで、保険診療の負担割合に応じて払いすぎた分が還付されるというシステム。
「この方法なら保険適用できるかも」
仲間を集めて、2005年、「弾性着衣」の保険適用を実現させるために動き出しました。
保険適用を目指して立ち上がった「鬨(かちどき)の会」
2005年1月、「リンパ浮腫に対する弾性着衣」を保険適用にするため「鬨(かちどき)の会」を立ち上げました。
フルネームは『リンパ浮腫に対する弾性着衣の保険適応を実現する会~鬨(かちどき)の会』なんですが、名乗るには長すぎるので世間では鬨の会で通ってました(笑)。実現したら“鬨”を挙げて即解散するっていうのも、発足当初から決めてました」とのこと。
鬨(かちどき)の会での活動の様子。左:キックオフミーティング、右:福岡県福岡市中央区天神での署名活動(写真提供:北村 薫先生)
「当時『鬨の会』と言えば、患者さんの間ではそれなりに知られた存在になっていて、会員も全国に1000人以上いました。メンバーにはリンパ浮腫を抱える患者さんや家族の他、医師、看護師、理学療法士、作業療法士、議員、弁護士など、多種多様なジャンルの人たちがいて様々な角度から情報を共有しながら士気が高まっていくのを実感できました」と、北村先生は懐かしそうに振り返ります。
アクロス国際会議場での総会の様子:第一回、第二回(写真提供:北村 薫先生)
「鬨の会」では、「弾性着衣」の保険適用を実現するため、大きく2つの活動を行いました。1つは議員を巻き込んだロビー活動、もう一つは啓発活動です。具体的には「リンパ浮腫110番」という専用回線での相談窓口開設、署名活動、県内外での講演活動。そこにもう一つ、大きな追い風が吹くことになりました。
翌2006年、日本乳癌学会に申請した「リンパ浮腫に対する実態調査と治療・予防のガイドライン作成」という研究テーマが採択され、研究班長に選ばれたのです。さっそく全国の病院宛にリンパ浮腫の実態調査を行い、1400名以上の症例について詳しく解析することができました。
その中間報告の場に居合わせた共同通信社の取材によって、リンパ浮腫の実態は広く全国に報道され、病気の認知度が一気にあがりました。さらに医療系ガイドラインを多く手掛ける金原出版から依頼を受け、リンパ浮腫の科学的根拠に基づく診療体系をまとめる機会をいただいたのです。
左:研究班長の委嘱状 右:第一回北村班会議の様子(写真提供:北村 薫先生)
北村班中間報告結果の報道(共同通信配信ほか)(写真提供:北村 薫先生)
行政への働きかけと3度目の正直
ロビー活動の甲斐あって、市議→都議→国会議員とつながり、2005年11月には早くも厚生労働副大臣(当時)との面談が叶いました。とはいえ、当時は実態を示すエビデンスもなく「まずはデータを持ってきて」と宿題をもらっただけで帰福。
翌年の面談ではデータ解析もガイドライン執筆も着々と進みつつあったので、同副大臣から「順調に進んでますね、すごい、すごい。」と評価されたものの、具体的な話には進まず。
「来年こそは厚労大臣に会うぞ!!」と鼻息荒く福岡に帰ってきたのでした。
赤松厚労副大臣との二度の面談(写真提供:北村 薫先生)
そして2007年、初版の診療ガイドラインの執筆が終わり、データも論文としてまとめられた段階で、ついに舛添厚労大臣(当時)との面談が叶います。
前日に急きょ「10分会える」と連絡を受け、慌てて飛行機のチケットを手配して上京。11万3683名分の署名と、完成したばかりのガイドラインのゲラ(校正刷り)を持参しました。
舛添大臣から「ここまでしてくれたなら僕たちも何とかしなきゃね」と、極めて前向きな言葉をいただき、面談後の記者会見で「来年の春には何とかしたい」という大臣の発言を伝えたところ、翌日には「来春を目途に弾性着衣の保険適用を検討」といった記事が全国紙に掲載されて、状況が一気に進展。
この年、厚労省には600件もの新規保険申請がありましたが、リンパ浮腫に関連する提案が最終審査に4件残り、その後もひとりで厚労省に足を運んで、役人に「もっとも治療効果が高いのは圧迫療法」と重ねて訴えました。
ついに舛添厚労大臣との面談を果たしました(写真提供:北村 薫先生)
ついに届いた内定、そして新たな課題
2008年2月、待ちに待った「弾性着衣保険適用」内定のファックスが厚労省から届きました。
この知らせに、北村先生はすぐさま「鬨の会」のコアメンバーを招集。皆でこの朗報を共有するため、号外を作成し、全国1000人を超える会員へ郵送しました。
そして、ついに「鬨(かちどき)」を皆で挙げる瞬間を迎えます。その後、目的を果たした「鬨の会」は実現祝賀会&解散式を行い、怒涛の3年の活動に終止符を打ちました。
「保険適用をこんな短期間で成し遂げたのは異例の早さ、と議員たちは本当に驚いていました。強引さで褒められたのはこれが初めて!」と北村先生。
活動報告と実現祝賀会の様子(西鉄グランドホテルにて)(写真提供:北村 薫先生)
予定通り最後に鬨をあげて解散!(写真提供:北村 薫先生)
しかし、喜びも束の間、またもや新たな課題に気づいてしまい…。
「2008年4月1日から保険が適用されるのに、医療者は卒前教育でリンパ浮腫について習ったことがないんです。実際の診療に対応できる医療者が病院にいない!」と北村先生。
人材育成へのシフト
「今度は医療者にリンパ浮腫の正しい知識とスキルを伝え、リンパ浮腫診療ができる人材を育成する組織を創ろう!」
北村先生は、次なる課題に向けて動き始めました。実は圧迫治療と同時に「リンパ浮腫指導管理料」という予防指導についても新たに保険で認められていたのです。これは、北村班で得た「リンパ浮腫を予防するための患者指導は重要である」という科学的根拠が評価された結果です。
「せっかく保険が通ったのだから、これを活かさないと意味がない」と考えた北村先生は、人材育成に舵を切ることにしました。
「リンパ浮腫の専門知識を持つ医療者を400人~各都道府県に10人くらいずつ~育てよう」と次なる目標を掲げ、リンパ浮腫指導技能者養成協会:通称LETTA]を開設しました。
第一期開講はなんと解散祝賀会の2日後。
左:実習の様子 右:講義中(NHK「福祉ネットワーク」の取材風景)(写真提供:北村 薫先生)
LETTAでは、座学45時限、実技90時限という海外の標準要綱を参考に、3週間にわたりリンパ浮腫の診断、予防治療の基礎と応用を各領域の専門医を招いて体系的に教えました。
当時「世界で最も難しい修了試験」と言われていましたが、2013年の閉講まで11期437人の修了生を輩出し、これも予定通り目標の実現とともに幕を閉じます。
第11期修了生(前面にLETTAの文字!)(写真提供:北村 薫先生)
リンパ浮腫の啓発は患者さんにすべし!
保険適用の体制を整えたものの、乳がん患者さんの増加に伴い、リンパ浮腫の患者さんも増え続けました。しかし、リンパ浮腫に関する正しい知識は、医師の間ではなかなか広まりません。
「当時は、『さすっとけばいい』とか『俺の手術は腫れない』なんて無茶なことを言う医師も少なくありませんでした」と北村先生は苦笑いをしながら振り返ります。
医師たちの意識改革の難しさを痛感した北村先生は「啓発は患者さんにすべし!」と、患者さんや家族に向けた啓発活動を始めました。
リンパ浮腫のメカニズムや予防、圧迫療法の重要性などを患者さん一人ひとりに伝えると同時に、定期的に講習会を行いました。
さらに、看護師や、日常生活の動作やリハビリを支える理学療法士や作業療法士のように、患者さんと接する機会が多い医療者にも院内外でセミナーを開くなど、多職種スタッフへの教育も同時に進めてチーム医療を確立を図っていったのです。
リンパ浮腫に特化した学会の設立
そして2016年、北村先生の長年の夢がまたひとつ実現します。
「日本リンパ浮腫学会」を設立し、リンパ浮腫学のさらなる発展に向けた新たな一歩が踏み出されました(2018年より一般社団法人)。
日本リンパ浮腫学会の目的は、学術研究:最新研究の発表、アップデートとその共有、教育:専門性の高い人材育成のための認定制度と研修、科学的根拠に基づいた医療(EBM)の推進:EBMの指針となるガイドライン編纂という3つの柱を強く太く展開していくことです。
とくに自らが委員長を務めるガイドライン委員会では、2008年度の初版から、本年3月発行の第4版に至るまでずっと関わってきた肝いりの学会事業。「リンパ浮腫診療ガイドラインがこの疾患に携わるすべての医療者にとって、困った時のみちしるべになると信じて取り組んできました」と北村先生は力を込めます。
患者さんも正しい知識を持ってほしい
長年リンパ浮腫治療に携わってきた北村先生には、治療の現場に関するある懸念があります。
「リンパ浮腫の診療は、専門的な研修を受けた医療者(医師、看護師、理学療法士、作業療法士)のいる医療施設で受けること。整骨院やマッサージ治療院などでは、医師がいないため診断をつけたり治療方針を決めることはできません。そういった施設では主に用手的リンパドレナージ(マッサージとは全く違う手技)を自費で行うことが多いですが、リンパドレナージ単独ではリンパ浮腫が改善しないことは多くの論文で科学的に証明されています。やっぱり、1番有効なのは、暑苦しくて申し訳ないけど 適切なサイズの弾性着衣を適切に着けることなんです」と北村先生は熱く語ります。
リンパ浮腫治療のウソ?ホント?
リンパ浮腫の外科治療について聞いてみました。
「顕微鏡を使った手術でリンパ管と静脈をつなぐなど、リンパ浮腫の外科治療が話題になっています。患者さんの中は『手術さえ受ければ、もう暑苦しい圧迫療法をしなくていいのね』と思う方がいるかもしれませんが、それは間違いです」
北村先生は、リンパ浮腫の性質についてこう説明します。
「外科治療したあとも圧迫は必須。リンパ浮腫は完治というより付き合っていくという意識が必要です。弾性着衣は、高血圧に対する降圧剤みたいなもので、お薬飲むのをやめると落ち着いていた血圧はまた上がってしまうでしょう?それと似ています。
そして何より発症しないようにすることが一番大事。肥満と感染症は明らかにリンパ浮腫の危険因子ですから、これを回避する観点から生活習慣を見直すことは発症予防にとても有効です。乳がんの場合はセンチネルリンパ節生検というのが普及したので、発症率や重症例は減少しましたが、全く発症しないわけではありません」
患者向けリンパ浮腫診療ガイドラインの発刊
北村先生は女性医師ならではの視点や配慮、そして患者さんを大切に思う温かい心意気が、乳腺外科医としての専門性と結びつき、患者さん一人ひとりの悩みに向き合い続けてこられたのだと思います。
現在、もうひとつ新たな挑戦に向けて準備を進めています。
「今のガイドラインは医療者向けなので、患者さんが読むには堅苦しくて読みにくいかもしれないと思い、同じ内容を分かりやすく解説した患者さん向けのガイドラインを新たに作りました」と北村先生。患者組織ネットワークであるリンネットが取りまとめたアンケートに含まれる600近い質問のすべてに、ガイドラインの解説文や一問一答におり交ぜて回答しました。
「貴重な現場の声だから全部に応えたかったんです(笑)。大変でしたが、ガイドライン委員会の有志と一緒に頑張って来年1月1日発売にこぎつけました。
あとは、学会事業として患者市民参画をもっともっと成熟していきたいです。その中で、チアーズビューティーさんのような団体と連携していくことで、治療だけでなく、外見ケアや心のサポートも含めたトータルな支援ができると思います。
私の患者さんは、ほとんどが女性。女の子は幾つになっても綺麗じゃないと元気が出ません。彼女たちをサポートするには、自分がしょぼくれてると駄目なんで、とりあえず自分が賑やかしくしてないとね!」と明るく笑う先生の姿は、周囲の人々に希望を与える存在そのものです。
最後に、北村先生は率直な思いを語りました。
「弾性着衣が保険診療であることが当たり前になったように、標準的なリンパ浮腫診療が全国の医療施設で当たり前に受けられるようになることが本当のゴールと思っています。当たり前ってステキ」
バンド活動も真剣勝負の北村先生は本当にカッコイイ!観客には先生の患者さんも多くこられます。(左 写真提供:北村 薫先生)
インタビューを終えて・・・
当時の北村先生たちの頑張りが、今、実を結んで、患者さんの安心につながっているというのをすごく感じました。北村先生のこれまでの歩みと、患者さんへの想いに改めて深く感銘を受けました。これからも、その挑戦を応援していきたいと思います。
【インタビュー記事担当者】
編集長:上田あい子
編集ライター:友永真麗
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