(前編)第3回 がん経験者座談会☆~がん治療と子育て~

子育て中の女性が、がんに罹った場合、なかなか治療だけに専念することができないのではないでしょうか。また、子どもに対してどう関わるべきか悩むママも少なくないでしょう。今回、実際に子育て中でがんに罹った方たちに、現実と悩みに直面しながらも乗り越えた経験について語っていただきました。

参加者の自己紹介


水戸部ゆうこさん・40代
肺腺がん:6年生
がん罹患当時のお子様の年齢:小学校5年生と2年生の男の子
治療内容:標準治療の分子標的薬服用(約2年間)。その後、治験に参加し点滴による投与(約2年間)するも途中、治験が終了となり、標準治療として継続。2度目の治験に参加するも副作用がひどく投与して1週間で治験から離脱。その後、3ヶ月間無治療。2023年5月からファーストラインと同じ分子標的薬を服用。現在も継続中。

「2018年に肺腺がんステージ4と診断され、当時は精神的に奈落の底に突き落とされたような気持ちでした。私は隠し事が苦手で、家族にもありのままを見せながら過ごしています。」


池上薫さん・40代
小唾液腺がん(臼後部):4年生
がん罹患当時のお子様の年齢:5歳の女の子と2歳の男の子
治療内容:小唾液腺腫瘍摘出手術(左臼後部)、頸部リンパ郭清、左前腕遊離皮弁術、抜歯2本、放射線。

「2020年1月、歯科大口腔外科から大学病院頭頸部外科を紹介され、初診でがん告知されました。私のがんは他科のお医者さんでも聞いたことがないほど珍しいものです。最初は小唾液腺がんと言われていましたが、その後腫瘍の場所に基づいた別の名前がつけられました。告知から2ヶ月後に腫瘍の全摘と頸部郭清(けいぶかくせい)といってリンパも取っています。同時に、傷同士がくっついて、口が閉じてしまい、発話や食事が出来なくならないように、左腕から皮膚や筋肉、血管などを組織ごと移植する左前腕遊離皮弁術も受けました。
1ヶ月の退院直前に検査結果が出て、臼後部(きゅうごぶ)癌粘表皮癌ステージ4で5年生存率が25%と告げられ、現在4年経ち、今のところ再発はしていません。
ただ、予後(今後の病状についての医学的な見通し)があまりにも悪くて、メンタルを崩してしまい、適応障害という診断を受け、今も薬を服用しています。」


赤井芳美さん・40代
甲状腺がん:7年生
がん罹患当時のお子様の年齢:5歳と生後半年の男の子
治療内容:外科手術とホルモン剤投与

「私が、がんとわかったのは、2017年に次男を出産して3ヶ月後のことでした。腰に痛みがあったものの「産後よくあることかな」と思って整体や整形外科に通っていました。ある日、夜中に声を上げるほどの痛みに襲われ、かかりつけの整形外科でCTを撮ったところ、すぐに大学病院を紹介されました。生検の結果、甲状腺がんがすでに骨転移している状態でした。
その年には腰の骨を1つ取り除き、人工の骨を埋める手術を受けました。翌年1月には甲状腺全摘をし、池上さんと同じように左手首の腱を血管ごと食道と気管に移植して再建手術を行いました。
診断当時はステージ2(甲状腺癌は癌の状態でなく、年齢でステージが決まります)で、がん自体もすごく大人しいがんだと言われていたのですが、私の場合はとにかく暴れん坊で、体のアチコチに転移しています。2023年5月には肋骨に転移したものが、大きくなったため、肋骨を切除しました。今もどこに転移しているかわからない状態です。」


進行役:上野さくらさん(仮名) ・40代
乳がん:6年生、血液がん:4年生
がん罹患当時のお子様の年齢:小学校3年生と1年生の男の子
治療内容:右乳房全摘手術。同種移植の前処置で抗がん剤使用(フルダラ、ブスルフェクス)。現在は1ヶ月に1回血球をあげるためのロミプレート皮下注射とドナーの細胞が入っているので免疫抑制剤(プログラフ)、プレドニンを服用中。

「私は、乳がんに罹患して2年後に血液のがんに罹りました。そのため、4年前に骨髄移植を行っています。当時子どもは小学校5年生と3年生でした。私も夫も実家が遠方なので、親戚など頼れる人が近くにおらず、家族4人で病気と向き合いながら過ごしています。」

告知を受けた瞬間
一番に思うのは子どものこと

皆さん、病院でがんと告げられたとき、大変ショックを受けたと思いますが、その時に子どもさんのことを一番に心配されましたか?

たぶん皆さん同じでしょうが、自分のこと以上に子どものことを考えましたね。

私も「1ヶ月間の入院の間、子どものことをどうしよう」と、診察室でそれだけが頭の中をぐるぐるしていました。

私も「あぁ、もう終わったな…。私は乳飲み子を残して死ぬのか…」と思いました。変な話、死ぬこと自体は怖くありませんでした。私自身は楽になるからいいんだけど、あの子たちはどうしようってことばかり考えていましたね。

当然ですが、子どもは一人では生きていけません。バランスの取れた食事や、毎朝の起床、学校への通学など、日常生活のさまざまなことを考えれば考えるほど、ますます不安になりました。

うちの子ども達は毎日癇癪がひどく、その当時はまだ診断が下りていませんでしたが、実際には発達障害でした。上の子もまだ5歳。そんな子どもたちが大変なときに1ヶ月も離れて暮らすなんて考えられなくて…。

すごくお気持ち分かります。実は、うちのお兄ちゃんも発達障害と知的障害もあるんですよ。なので、生後半年の子と障がい児を残していくなんて考えられなかったです。

やっぱり皆さん同じ気持ちですよね。病気になったショックはもちろんありますが、そこに気持ちは追いつかず、まず第一に子どものこと、これからの生活がどうなるかが頭をよぎりますよね。

子どもにはどう伝えた?
私たちなりの伝え方

小さな子どもがいてがんに罹ってしまった場合、「子どもに病気のことをどう伝えたらいいのだろう」と悩まれたと思います。私もそこは大変悩みました。皆さんはどのようにされましたか?

私はとにかく隠し事ができない性格で(笑)。がんが見つかった衝撃とすでに進行しているため、手術もできない状態だったのですごくうろたえました。そのため、子どもに対しても、分かりやすく上手に理解させようとする気力すらありませんでした。さらに、まず私自身ががんに対する知識もなかったので、不安をあまり表に出さずに、「事実のみを伝えよう!」と決めました。

一緒です! 私もどうせうまく隠せないなら「全部話しちゃえ!」と思いました。乳がんになった時は、入院する2週間ぐらい前の夜、寝る前に布団の中に入って、子ども2人を呼んで、「お母さん、おっぱいに病気が見つかったから、おっぱいを無くさないといけなくなってね。10日ぐらい、入院するからその間だけがんばってね」と伝えました。

お子さんたちの反応はどうでしたか?

まだ小学校低学年だったので、あまり意味もわかっていなかったと思います。だけど「うんわかった、大丈夫、大丈夫。お母さんがんばってね」と、あっけらかんとしていましたね。
退院後、傷口を見せた方がいいのか、見せない方がいいのかも悩みました。でもやっぱり隠せないと思って、「お母さんの傷、見てみる?」と聞いたら「見てみる」と言ったので、ありのままを見せました。子どもたちは「わぁすごいね」と言っていました。

子どもって一瞬、「大丈夫かな?」「お母さんどうなっちゃうんだろう」という思いはありながらも、見ていると順応性が高いなってすごく感じます。

ほんとそうですよね!

私が普通に家の中で家事をしていると「あれ? 平気なのかな」と思うんですよね。それで、私が病気だということを忘れて友だちをじゃんじゃん呼んできたり(笑)。

そうそう(笑)。水戸部さんも隠すことが苦手だとおっしゃられましたが、具体的にはどのような行動をとられたのですか?

当時、子どもたちは小学5年生と2年生で、私の診察日に一緒に病院へ行きました。病院が遠方にあるので、家族と車でちょっとしたお出かけ気分でしたね。

それはいいですね!

診察室にも一緒に入って、先生から私の状況を説明してもらい、その後、病院内にあるがん相談支援センターにも連れて行きました。私の病院ではそこに、子どもに対応するスペシャリストの方がいらっしゃるんです。その方のお話を聞いて、帰りに美味しいものを食べることにしていました(笑)。

イベントみたいな感じですね。

そうです! 名づけて「お母さんの病気を理解する日」と呼んでいました。小学校の間だけでしたが、夏休みと春休みに1回ずつ、ママがどんな病院でどんな先生に診てもらっているのかを見せるだけでも、子どもたちが安心するのではないかと思いました。

きっと子どもさんも少し安心できたでしょうね。

そうですね、少しは理解してくれたと思います。ただ、先生の話だけでは説明がちょっと足りないかなと私が感じたので、「はたらく細胞」というアニメも一緒に観ました。

それ知っています! 人の体内で働いている細胞を擬人化した物語ですよね。

そうです。あと、実は私、「がんなのに、しあわせ ーどんなときも、自由に、自分らしく生きる」という本を書いています。がんという病気のこと、子どもとのやりとり、子どもへの想いを綴っています。今のところ、私の子どもたちが読んでいるのをあまり見かけませんけど(笑)。そのうちじっくりと読んでくれればいいなと思っています。

素晴らしい!

どんな状況でも子育ては
とにかくやるしかない!

池上さんと赤井さんは移植手術によって左手が全く使えなかったと思いますが、子どもさんがまだ小さく、抱っこや子育てはどうされていたのでしょうか?

それが…、本当に大変で! その時の記憶がないので少し思い出してみます…。

赤井さんが思い出している間に私がお話しますね! 私の場合は、左腕の麻痺がビリビリと本当にきつく、とても動かせるような状況ではありませんでした。そんな状態で退院後にヤンチャな下の子の育児が到底できる気がしませんでした。そこで、先生に「早く動かせるように、リハビリはできませんか?」と相談すると「何もやることないよ」と言われたんです。「大丈夫、大丈夫。こんな腕の人、いっぱいそこらへんに歩いているよ」って。

あらら…。

退院してみたら、案の定すごく大変で、何かが腕に触れるだけで激痛が駆け抜けるような感じで…。
だけど、子どもは容赦ないんですよね。何度注意しても飛びついてくる。普通の子でも大変だと思いますが、うちの子は特に激しい子で抱っこなんてできませんでした。

よく分かります。

それから1年半ほど経って、やっと腕力が少しずつ戻ってきました。息子が4歳になるころには、ほんの数分ですが、抱っこできるようになっていましたね。ただ、今でも何回言っても傷痕を叩いてくるので、「いつになったら覚えるの!」とよく怒ってしまいます(泣)。

抱っこは本当に大変ですもんね。他に大変なことはありましたか?

運転ができないことも困りました。腕力がほぼないので、シフトレバーも動かせず、保育園へは運転してしか行けないエリアにあったので。結局、お医者さんにリハビリを受けたいことを相談し続けて受けられるようになったら、思っていたより短期間で運転はできるようになりました。

私も入院中や治療中に運転できなかったことが大変でした。その時は家族の移動はタクシーを使っていたのでかなりの出費に(泣)。赤井さん、思い出されましたか?

はい! 私が退院した頃は長男が幼稚園に通っていました。私も池上さんと一緒で左手が使えないので、朝、廊下にベッドのシーツを敷いて、そこに長男と「いっせーのせ!」で生後半年の次男を乗せ、廊下をずるずる引きずって玄関に置いてあるベビーカーの前まで連れてきます。そこでまた長男と「いっせーのせ!」で次男をベビーカーに乗せます。

お兄ちゃん偉い!!

ほんと助かりました。それから、長男を幼稚園バスまでお見送りする…まではいいのですが、家に帰ってきてからが問題です。私一人しかいないので、次男を抱き上げられないんですよ。だから立てない次男を片足ずつベビーカーから降ろして、「歩くんだよ〜歩くんだよ〜」と生後半年の赤ちゃんに言うんです。

「あんよはじょうず」みたいに励ますんですね。

そんな感じです(笑)。ベビーカーからなんとか降ろせたら、またベッドのシーツの上に乗せてずるずるとリビングまで引っ張って、「あとはお好きにどうぞ〜」みたいな感じでした。

毎日、そのように奮闘されていたのですね。

あと、大変だったのは、私のがん罹患がコロナの第一波と見事にかぶってしまったことです。実家が遠方だったので、がん罹患前は、高熱時や第二子出産時等、保育園のママ友達に助けてもらって乗り越えてきました。がんが分かった時も、ママ友に頼むしかない!とオープンにしていましたが、コロナの影響で全ての計画が崩れてしまいました。

ちょうど世の中が混乱している時ですよね。

そうなんです。第一波だったので、得体がしれず友だちは私にうつせないと思い、私からもお願いしづらい状況で。

お互いに気を遣いあって、声をかけることを遠慮してしまいますよね。

さらに、保育園に預けて子どもたちが感染し、それが私にうつり病状が悪化することを夫が非常に心配し、子どもたちの保育園を休ませることになりました。そのため、私は退院直後から約2ヶ月間、子どもたちと家で過ごすことになりました。
とは言え、半日予定されていた私の手術当日は、友達が「二人とも泊まりで預かるからね!」と夫婦で申し出てくれて、子ども達は手術日を「お泊まりの日」と楽しみにしていたり、パン屋さんの友達はパンを、他の友達は手料理をよく夫に届けてくれたりと、やはりたくさん助けられました。

近くに両親も親戚も
頼れる人がいない…

お二人とも、身近にサポートしてくれる家族や親戚はいらっしゃいましたか?

私は早くに両親を亡くしていますし、身内も近くにおらず頼れる人が全くいなかったので本当に大変な状況でした。

私の場合は、がんに罹患した時、京都に住んでいました。そのため、入院の1ヶ月間を乗り切るために、その間だけ地元の福岡にいる母に京都へ来てもらう提案を夫にしました。しかし、私たちはそれまでほとんど母と交流がなかったこともあり、夫は私がいない状態で母と暮らすことにためらいがあって。

ご主人の気持ちもわかります…。

そうなんですよ。それから夫は会社に相談して、毎日半休を取って子どもたちを保育園に1時間早く預かってもらい、送迎してから出勤し、少し早く帰宅してからご飯を作ったり、家事をして、私の病院に来て洗濯物を取り替えたりして、結局、全部1人でこなしました。

ご主人も頑張りましたね。

はい、大変感謝しています。ただ、予後があまりにも悪かったこともあって、放射線治療が終わると福岡にUターンすることになりました。私は勤めていた会社を退職し、夫は希望転勤が通って福岡に転勤させてもらいました。

他の方と比較はできないですけど、たくさんのものを抱えている状況で、いろいろなことを同時並行で進めていかないといけないんですよね。みんな初めてのことだし、パニックになるのは当前だろうなと思います。
そんな大変な状況で、皆さんはどこを頼って、情報をどうやって探していたのか、後半でお聞きしたいと思います!

後編後半では、皆さんが自分も子どもも守るために、どのようにして人や情報と出会い、頼れる場所を探して行ったのか、また、経験を通して自分たちだからできることに精力的に活動されているお話などをご紹介していきます。

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